葬儀の歴史とは?起源から現代までの変化を解説

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葬儀はいつから始まり、どのように現在の形へと変化してきたのでしょうか。その起源をたどると、宗教や制度が整う以前の埋葬という行為に行き着きます。人類は古くから死者を地中に埋め、副葬品を添え、やがて社会的地位や宗教観を反映させるようになりました。日本においても、縄文時代の埋葬から始まり、弥生・古墳時代の身分差、仏教の影響、江戸期の制度化、そして戦後の葬儀社中心の運営へと変化しています。葬儀は固定された儀式ではなく、社会構造や宗教観、生活環境の変化とともに姿を変えてきました。本記事では、人類史の起源から現代まで、時代ごとの変化を整理しながら葬儀の歴史を解説します。

人類史において葬儀は埋葬から始まった

葬儀の起源は、死者を地中に埋める行為にあります。
なお、葬儀の基本的な意味や役割は、葬儀とは何かを解説したページでも整理しています。
宗教や制度が存在しない時代から、人は亡くなった仲間を一定の場所に埋葬してきました。
10万年前の遺跡からは、遺体を整えた状態で埋めた痕跡が確認されています。
遺体が横たえられた姿勢のまま土に覆われている例や、複数の遺体が同じ区域に埋められている例が見つかっています。
自然に埋まった状態とは異なり、人の手で土をかけたと判断できる構造です。
この段階では読経や祭壇は存在していません。
しかし、遺体を放置せず、土に埋めるという選択がなされた点に、葬儀の原型があります。
葬儀は制度として始まったのではなく、埋葬という行動から生まれました。

埋葬に副葬品や儀式が加わり葬儀の形が芽生えた

埋葬はやがて、道具や装身具を添える行為へと広がりました。
これは死者に対する扱い方が変化したことを示します。
旧石器時代後期の墓からは、石器や骨製の道具、貝製の装身具が出土しています。
これらは生活の中で使用されていたものであり、偶然混ざったものではありません。
遺体のそばに意図的に配置された状態で見つかっています。
副葬品を添える行為は、死後の存在を意識していた可能性を示します。
埋葬は単なる処理から、意味を持つ行為へと変わりました。
この変化が、後に宗教儀礼を伴う葬儀へとつながっていきます。

日本では縄文時代に葬儀の原型となる埋葬が見られる

縄文時代には、現在のような宗教儀礼を伴う葬儀は存在していません。
しかし、亡くなった人を一定の方法で地中に埋めるという行為は行われていました。
各地の縄文遺跡からは、地面を掘って遺体を納めた土坑墓が見つかっています。
遺体は姿勢を整えた状態で埋められており、偶然に土中へ埋没したものではありません。
人の手で埋葬された構造が確認されています。
制度や宗教はまだ整っていませんが、死者を放置せず、一定の方法で見送る行為が存在していました。
ここに、日本の葬儀へとつながる原型を見ることができます。

縄文時代|集落内に墓が設けられた

縄文時代の埋葬は、集落の中で行われていました。
住居の周辺から墓が見つかる例が多く確認されています。
竪穴住居の近くに掘られた土坑墓からは、屈葬と呼ばれる姿勢で埋められた人骨が出土しています。
膝を曲げ、体を丸めた姿勢は当時の標準的な形式でした。
体を折り曲げる埋葬方法は、限られた墓穴の中に納めるための実務的な理由もあったと考えられています。
生活空間の中に墓を設けるという形は、死者を共同体の外へ切り離すのではなく、同じ場の中で扱っていたことを示します。
この段階では墓の規模に大きな差は見られず、共通した埋葬方法が取られていました。

縄文時代後期|墓域が区分されるようになった

縄文時代後期になると、墓がまとまって設けられる区域が確認されます。
住居とはやや離れた位置に、複数の墓が集中して配置される例が見られます。
墓の向きや間隔が一定している遺跡もあり、埋葬の方法や場所に共通の取り決めがあったことが分かります。
これは偶然の配置ではなく、埋葬の場を意識的に分けた結果です。
集落の規模が拡大し、人口が増えるにつれて、埋葬の場を整理する必要が生じたと考えられます。
この整理の過程が、次の弥生時代に現れる墓の規模の差や社会的地位との結びつきへとつながっていきます。

弥生時代から古墳時代にかけて葬儀は社会的地位と結びついた

弥生時代に入ると、墓の大きさや構造に明確な違いが見られるようになります。
縄文時代では埋葬方法に大きな差は確認されていませんが、弥生時代では墓の規模や副葬品の量に違いが現れます。
水田稲作が広がると、土地や収穫を管理する立場が生まれました。
集落の中で指導的な役割を担う人々が現れ、その地位は死後の扱いにも反映されます。
埋葬は単に死者を見送る行為にとどまらず、生前の立場を示す要素を持つようになりました。
この変化は古墳時代にさらに強まります。

弥生時代|墓の規模に差が生まれた

弥生時代中期から後期にかけて、大型の墳丘墓が築かれるようになります。
一方で、多くの人々は小規模な土坑墓に埋葬されていました。
吉野ヶ里遺跡では、周囲に溝を巡らせた墳丘墓が確認されています。
これらの墓からは銅剣や銅鏡、勾玉などが出土しており、一般的な墓とは副葬品の内容が異なります。
副葬品の種類や数量に差があることは、埋葬された人物の立場が異なっていたことを示します。
また、墓の配置にも違いが見られます。
大型墓は集落の中でも目立つ場所に築かれる例があり、視覚的にも区別されていました。
ここに、埋葬が社会的な序列と結びつく動きが確認できます。

古墳時代|巨大な墳墓が築かれた

古墳時代に入ると、墓はさらに大規模になります。
前方後円墳と呼ばれる巨大な墳墓が各地に築かれました。
仁徳天皇陵古墳は全長約486メートルに及び、築造には大規模な労働力が必要でした。
この規模は、強い政治的権力が存在していたことを示します。
副葬品には武器や装身具が含まれ、埋葬は支配者の地位を象徴する場となりました。
この時代の葬送は、社会的地位を示す性格を強く持っていました。
同時に、死後の世界観や祖先への意識も重視されるようになります。
こうした意識の変化は、次の時代に仏教が受け入れられる土壌となっていきます。

飛鳥時代から鎌倉時代にかけて葬儀は仏教の影響を受けた

古墳時代までの葬送は、権力や地位を示す性格が強いものでした。
飛鳥時代以降は、そこに仏教の思想が加わります。
現在の仏式葬儀の具体的な流れや特徴は、仏教の葬儀を解説した記事で詳しく整理しています。
6世紀に仏教が伝来すると、死後の世界や供養という考え方が広まりました。
7世紀末には持統天皇が火葬された記録が残っており、仏教的な葬送が支配層に取り入れられていたことが確認できます。
埋葬の方法そのものにも変化が見られるようになります。
この時期から、読経や僧侶の関与が葬送の一部となり、死者の冥福を祈る行為が重視されるようになります。
葬送は、社会的地位を示す場であると同時に、宗教的意味を持つ行為へと変化していきました。

飛鳥奈良時代|仏教の読経が葬儀に取り入れられた

飛鳥時代から奈良時代にかけて、仏教儀礼が支配層の葬送に取り入れられました。
国家仏教が進められる中で、寺院は政治と結びつき、仏教儀式の社会的影響力が強まりました。
『日本書紀』や『続日本紀』には、天皇や有力者の葬送に僧侶が関与した記録が見られます。
また、奈良時代には火葬が行われた例も確認されています。
ただし、この段階では仏教葬儀は主に支配層に限られていました。
葬送の宗教化は始まりますが、社会全体に広がったわけではありません。
仏教の影響はまず上層から進みました。

平安時代|貴族の葬儀に一定の形式が生まれた

平安時代になると、貴族社会の中で葬儀の形式が整えられていきます。
読経や法会が葬送の中に組み込まれ、手順が一定化しました。
『源氏物語』や貴族の日記文学には、葬送の場で僧侶が読経を行う様子が描かれています。
また、火葬は貴族層の間で広く行われ、遺骨を納める方法にも一定の慣習が見られます。
この時代の葬儀は、社会的地位を示す要素を残しつつも、死後の安寧を祈る宗教的儀礼としての性格を強めました。
後の武士社会の葬送にも、この形式が影響を与えます。

鎌倉時代以降|僧侶が庶民の葬儀に関わる例が増えた

鎌倉時代に入ると、新しい仏教宗派が広まりました。
浄土宗や日蓮宗などが成立し、念仏や法華経の信仰が広がります。
寺院は地域社会と結びつきを強め、葬送の場に僧侶が関わる例も増えていきます。
ただし、この段階で全国的に制度化されたわけではありません。
地域や身分によって差がありました。
それでも、死後の供養を僧侶が担うという形は徐々に定着していきます。
この流れが、江戸時代に寺と葬儀が制度として結びつく基盤となります。

江戸時代から明治時代にかけて葬儀は制度の中に組み込まれた

鎌倉時代以降、僧侶が葬送に関わる動きは広がりましたが、地域差がありました。
江戸時代に入ると、寺と葬儀の関係は制度として固定されます。
幕府はキリスト教の取締りを目的として宗門改めを実施し、人々をいずれかの寺院の檀家としました。
寺院は信仰の場であると同時に、住民管理の役割も担います。
その結果、葬儀や法要は所属寺院で行う形が定着しました。
葬送は宗教的儀礼であるだけでなく、幕府の統治体制の一部となります。
この仕組みは明治維新まで継続し、日本の葬儀の基本構造を形づくりました。

江戸時代|檀家制度が葬儀を寺と結びつけた

江戸時代には檀家制度が整備されました。
人々は特定の寺院に所属し、寺院は檀家の宗教的身分を証明する役割を担いました。
寺請証文はキリスト教徒でないことを示す証明書として機能しました。
この制度のもとで、葬儀や埋葬は所属寺院を通して行われる形が広がります。
僧侶が読経を行い、戒名を授ける形式も一般化しました。
現代におけるお布施の考え方や相場は、葬儀のお布施について解説した記事で詳しく整理しています。
こうして、葬儀は寺院と不可分の関係を持つようになります。
宗教儀礼は制度によって支えられ、地域社会の中に組み込まれました。

明治時代|火葬が広まり土葬が減少した

明治時代に入ると、葬送の方法にも変化が現れます。
火葬の普及が進み、土葬は徐々に減少しました。
火葬の具体的な流れや意味は、火葬とは何かを解説したページでも詳しく紹介しています。
1873年に火葬禁止令が出されましたが、衛生面への懸念や実情を踏まえ、1875年に解除されます。
その後、都市部を中心に公営火葬場が整備され、火葬が広まっていきました。
さらに1897年には墓地及埋葬取締規則が制定され、墓地や埋葬方法が行政の管理下に置かれます。
近代国家の形成とともに、公衆衛生や都市計画の観点が重視され、葬送は宗教だけでなく法制度とも結びつくようになりました。

戦後以降、葬儀は葬儀社が担う形へ移行した

江戸時代から明治時代にかけて、葬儀は寺院と行政の制度の中に位置づけられました。
戦後になると、その運営主体に変化が生じます。
高度経済成長期以降、都市部への人口集中が進みました。
住宅事情の変化や地域共同体の弱体化により、自宅で大規模な葬儀を行うことが難しくなります。
その結果、葬儀を専門に扱う事業者の役割が拡大しました。
葬儀社の選び方や比較の視点は、葬儀社を選ぶときのポイントを解説した記事で詳しく紹介しています。
葬儀は寺院が宗教儀礼を担い、葬儀社が全体を運営する形へと移行していきます。

自宅中心の葬儀から会館中心の葬儀へ移行した

戦前から戦後しばらくの間、葬儀は自宅で行われる形が主流でした。
地域住民や親族が集まり、共同で準備を行う方法が一般的でした。
1970年代以降、都市化と住宅の集合住宅化が進む中で、自宅での大規模な葬儀は難しくなります。
これに伴い、民間葬儀社が運営する葬儀会館が各地に整備されました。
葬儀の場は家庭から専用施設へと移り、会館を利用する形式が定着していきます。
現在の葬儀がどのような流れで進むのかは、葬儀の流れを解説した記事で確認できます。

葬儀社が葬儀全体を運営する体制が一般化した

戦後の経済成長とともに、葬儀社は事業として拡大しました。
1960年代以降には冠婚葬祭互助会が各地で設立され、会員制による積立制度が広がります。
祭壇設営、遺体搬送、式の進行管理、火葬場との調整などを一括して請け負う体制が整いました。
かつて地域が担っていた役割は、専門事業者へと移行します。
宗教儀礼は僧侶が担当し、実務は葬儀社が担う分業体制が一般化しました。

家族葬や一日葬など形式の選択肢も広がった

2000年代以降、葬儀の形式はさらに多様化します。
参列者を限定する家族葬や、通夜を省略する一日葬が広がりました。
背景には高齢化の進行や交友関係の縮小、費用意識の変化があります。
さらに、2020年以降の感染症拡大を契機に、少人数で行う葬儀の選択が加速しました。
現代の葬儀は、制度や宗教に加え、社会環境や価値観の変化の影響を受けています。
葬儀は固定された形ではなく、時代ごとに運営方法と規模を変えながら続いてきました。

葬儀の歴史から見える変化の流れ

葬儀の歴史を振り返ると、その始まりは宗教儀礼ではなく埋葬という行為にあります。
やがて社会的地位を示す役割を持ち、仏教の影響によって宗教的意味が加わり、江戸時代には制度として固定されました。
戦後は葬儀社が運営を担い、形式も多様化しています。
葬儀は一つの形に固定されたものではなく、社会構造や宗教観、生活環境の変化に応じて姿を変えてきました。
現在の葬儀もまた、長い歴史の積み重ねの上に成り立っています。

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中川 貴之