夏の早朝5時。プランナーの吉岡は築地市場を走っていた。
市場はすでに活気に満ちていた。フォークリフトの音、値段交渉の声、磯の香り。しかし吉岡には構っている暇がなかった。市場が閉まる時間が、刻々と迫っていた。
前日の打ち合わせで、孫がぽつりと言っていた。「おばあちゃん、とこぶしをずっと食べたがってた。これからは好きなだけ食べてほしい」
80歳で一人暮らしを続けていた祖母。晩年は病院での闘病生活が続き、孫の看病が生前の唯一の交流だった。吉岡はその言葉を、心に刻んでいた。
とこぶしの旬は5月だ。今は夏。市場をまわっても、まわっても、ない。20軒以上を訪ねた。「生では難しい」「関東ではめったに入らない」と言われ続けた。それでも吉岡は走り続けた。
吉岡はそれを大事に抱えて、自宅へ急いだ。
「なんですか、これ」
「とこぶしです。皆さんもぜひ」
孫が急に涙をこぼした。
三人で棺にとこぶしを入れた。三人で送るだけの、本当に小さなお葬式だった。でもそこには、本物のお別れがあった。
しばらくして、孫が吉岡に言った。「吉岡さんありがとう。でも不思議ですね。おばあちゃんがとこぶし好きだってよく知っていましたね」
吉岡はにっこりと笑った。