葬儀の歴史・文化
葬儀は約6万年前から存在しており、ネアンデルタール人が遺体を葬り、花をささげる、という行為をしていました。
葬儀は人類のアイデンティティ
葬儀(お葬式)とは、死者を弔う心の表われです。
葬儀は約6万年前から存在しており、ネアンデルタール人が遺体を葬り、花をささげる、という行為をしていました。つまり、人類という生物にとって「死を悼み、死者を弔う」行為はアイデンティティにかかわる重要な儀式といえます。
時代別の葬儀について
縄文時代から大正時代までの葬儀方法に触れていますが、それぞれの時代によって方法や考え方が違い、時代とともに変化しているのが分かります。
縄文時代
縄文時代には、屈葬(くっそう)という埋葬方法が行われていました。
屈葬とはその名のとおり、身体を曲げた状態で埋葬されることで、古代の埋葬方法の一つです。屈葬は、日本以外にはあまり見られない埋葬方法です。遺体が安らかに眠れるように、あるいは再生するための姿勢と考えられていたとも言われています。
この時代の人々は、死者を埋葬する際に脚を折り曲げて小さくし、狭い墓に収めていたのです。屈葬の目的や理由ははっきりしていませんが、死後の世界に関する信仰や儀式の一部だったと考えられています。
弥生時代
弥生時代になると、屈葬から一転して伸展葬(しんてんそう)が行われるようになります。
伸展葬は遺体をまっすぐに伸ばして埋める方法で、死者を尊重し、安らかに眠れるようにするための古代の埋葬方法です。わざわざ身体を曲げる時間的余裕がなくなったことや、死者が生き返らないことがわかったから、とも言われています。
古墳時代
古墳時代には、階層の高い人への敬意から古墳がつくられるようになります。一般市民については情報が少ないため割愛します。
646年に出された「薄葬令」によって、古墳の大きさや築造にかける期間、人員などが細かく制定されるようになりました。これにより、古墳時代初期のような大型の古墳は作られなくなったのです。
飛鳥時代
初めて火葬が行われたのがこの飛鳥時代です。700年に道昭という僧侶が火葬にされたという記録が残っているほか、702年には持統天皇も火葬にされています。
しかし、火葬はまだ一般的には広まらず特権階級の間でのみ行われていたようです。
平安時代
平安時代には、「納骨」文化がちらほら見え始めました。
高野山に火葬した骨や遺髪を納めるという「高野納骨」が盛んに行われた時代でもあります。
1085年に崩御した性信法親王は遺骨を、1108年の堀河天皇は遺髪を高野山に納めました。仏教の教えにおいて、悟りを開くものがいない時期を意味する「末法」だといわれていたこの時代、天皇や貴族などの特権階級の人々は、弥勒の浄土である高野山に納骨されることを願っていたようです。
鎌倉時代
鎌倉時代になると、浄土宗や浄土真宗(法然と親鸞)といった鎌倉仏教が一般的に普及することとなり、仏教の死生観も一般的に知られることとなり、本格的な葬儀が一般的に行われるようにもなりました。
鎌倉時代から火葬も広く利用されるようになったのですが、現代のような火葬場はなく火葬技術も未熟だったため、遺体を完全焼却することが難しく、土葬と火葬の両墓制が長らく続くことになります。
室町時代
室町時代の埋葬方法は、仏教の影響を強く受けたものでした。火葬や土葬が行われ、仏教の教えに基づく儀式や墓石(五輪塔)が使われました。
住人たちの「寺院の本堂近くに墓を立てて追善供養を受けたい」という願いの結果であり、これが現在の寺院墓地の始まりとなっています。
寺院が墓地を管理するようになり、埋葬は宗教的な意味を持つものとなりました。室町時代の人々は、仏教の教えを大切にしながら、故人を供養し、死後の世界への旅立ちを見守っていたのです。
江戸時代
鎌倉時代から広まりを見せた火葬文化ですが、江戸時代には一転して土葬が主流になります。
その理由としては、火葬の際に出る煙や臭いのほか、仏教における輪廻転生の考え方が関係しているのではないかといわれています。
当時の埋葬方法は、土饅頭(どまんじゅう)と呼ばれています。これは、死装束に身を包んだご遺体を棺桶(かんおけ)に納めて土に埋め、その上におまんじゅうのように土を盛り上げたことが由来です。
塔婆(とうば)や墓石がみられるようになったのも、この頃です。
江戸時代から、「人を弔う」「葬儀」としておこなわれていた慣習が、葬列・野辺送りです。野辺送りとは、葬儀の儀式が終了した後に、埋葬する墓地や火葬場まで故人を送ってゆくことを指します。
野辺の送りについては親族代表者や近隣の人々が故人を送る慣習であり、遺体の扱いを間違うと死者の穢れが近くの人に移ると信じられていた時代においては、穢れを残さないために、仕来り通りに行うことが送る側の大きな重要な儀式でした。
明治時代
明治3年に全ての寺院墓地が国有地となり、明治5年には法律によって自葬祭が禁止されました。
つまり、葬儀は全て神主や僧侶によって行われることになったのです。
一方で、仏教の普及の拡大に政府が恐れ、政府による仏教のはいせき、神道の推奨から火葬禁止令が出され、火葬が行われなくなりました。
しかし、火葬再開を望む声が多かったことに加え、土葬用の土地が枯渇してきたことから、火葬禁止令は2年で撤回されることになりました。
その後は衛生的な観点から火葬の有用性を認め、火葬が義務化されるようになりました。
また、明治時代から欧化のあおりを受け、喪服が白から黒へと変化していきました。
現在では当たり前となった告別式が、初めて行われたのは明治時代です。
実は、宗教的な儀式の「葬儀」とは異なり、告別式は故人に別れを告げる社会的な儀式です。
明治時代の学者・中江兆民の死を惜しんだ弟子や友人たちが行ったのが起源とされています。
大正時代
告別式が普及しはじめる大正時代に入ると文明の利器が発達したで、これまで人力車だったのが霊柩車が庶民の間でも使用されるようになり、輿を使った人力での葬送は徐々に見られなくなっていきました。
現代の葬儀の原型は大正時代の頃にできたと言えるでしょう。
江戸時代から昭和初期まで続いた村八分と村二分
江戸時代までの葬式は、特に個人葬は特権階級のものでした。
多くの一般人は共同墓地に埋葬され、村人全員が共同墓地に花をささげていました。
ちなみに、江戸時代から昭和初期にかけて「村八分」という制裁行為が存在していましたが、そのことからも葬式が重要事項であった事が分かります。
「村八分」とは、村落で秩序を破った者への制裁行為です。
簡単にいうと、村にとって望ましくない行為をした場合に、村八分という制裁を受け8つの項目において絶交され仲間外れとされるものです。
<8つの項目>
・成人式
・結婚式
・出産
・病気の世話
・新改築の手伝い
・水害時の世話
・年忌法要
・旅行における交流
一方で制裁を受けたとしても、村二分として助けてもらえる項目があります。
<2つの項目>
・消化活動(火事)、又は、田んぼの水利から外さないこと
・死体の埋葬(葬儀)
村八分の家は8割は絶交されたが、2割は村の社会システムの中で認められていたという事です。
お葬式は2割の中に必ず入っていた事からも重要事項であることが分かります。
日本人の死生観の歴史
日本人は信仰心が薄いと言われているように「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれ、すぐに答えられる人は少ないです。
しかし、日本人には素晴らしい「死生観」があり、「人が亡くなってから49日が過ぎれば、近くの山に魂が帰ってきて、子孫を見守っている」という祖霊観を持っていました。そして、その魂は孫に乗り移ると言われてきました。
日本人は死について話すことをタブーとされた時代があったためか、死生観についてあまり言葉で説明してきませんでした。一方で、日本人は行動や儀式によって表現されてきました。
お葬式や法事、お墓や仏壇などは、私たちの考え方を表しています。
現代の人たちは、言葉で説明されることに頼りがちでですが、人の心には言葉で表せない部分があって、特に宗教はこの言葉じゃない部分に関係しています。そこにも大切な教えや考え方が詰まっています。
日本人は宗教的な行動や儀式を通して、死について考えてきており、私たちは言葉ではなく、行動や体験を通して考えを伝えてきたのです。
「今の日本人にはしっかりした考え方がない」と言うのは間違っています。私たち日本人は、毎日、亡くなった人とつながり、話し合う豊かで優しい信仰を持ち続けてきました。
死と向き合い続けてきた民族だと言えます。
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